綺麗にマニキュアを塗られた赤く艷やかな爪が、諸悪の根源であるような気がした。
ほっそりとした指の先に鈍い赤がぬらぬらと光る。その指が包み込むアンティークのコーヒーカップはしんと黙ったままだった。カップの中には黒い液体がいっぱいに満たされている。彼女は砂糖もミルクも加えずに、液状と化したブラックホールを口にした。その緩慢な動作を眺めながら、彼女は珈琲を飲める人だったか、とぼんやり考えていた。
「つわりの時から飲めるようになったのよ」
僕の頭の中を読み取ったように、彼女は答えた。そのとき初めて、彼女が妊婦であったことを思い出した。けれどそのほっそりとした体躯はどう見てもそうは見えなかった。それよりは、病人といったほうがまだ近いかもしれない。僕はそっと、くわえた煙草をそのままケースにしまった。
「今、何週?」
「二十週と四日」
「体調は」
「悪くないわね」
僕は彼女の腹の中に収まる、小さな胎児を想像した。どのくらいの大きさだろうか。まだ指は分かれていないのだろうか。鼻は通っているのだろうか。彼女と、彼女の夫となりうる人と、どちらに似ているのだろうか。
「いつ、東京へ発つの?」
彼女はフォークでドーナツをいじりながら尋ねた。
「明後日。ほとんどの荷物はもう送った」
「あなたも社会人になるのね」
スーツを着て、せかせか働くあなたなんて想像できない、と彼女は笑った。僕も想像できないよ、でも現実はそうなんだ、と僕はわざとらしく溜息をついて首を横に振った。
「まだ大学に残ればよかったのに。だって、成績も優秀だったって」
「もうあんな鬱屈とした研究室に幽閉されるのはこりごりだよ」
人工的に作り上げられた夕暮れ色に包まれた店内で、各々が各々の時を過ごしていた。時間を気にして時計を見る者は誰ひとりいない。地下に潜むこの場所は、現実世界から逃れた者たちの虚構の空間だった。僕もその一人だ。しかし、彼女の腹の膨らみが嫌でも僕を現実へと引き戻す。その赤ん坊の存在が、僕と彼女が一生他人で有り続けることを静かに証明していた。
彼女の夫となる人は、彼女が所属していた研究室の助教だと聞いた。僕は一度だけ彼を見たことがある。色白でほっそりとした、なんとも弱々しい眼鏡の男だった。彼女より一回り年が違うといっても、その頼りなさは払拭されない。そんな男が、彼女に愛の言葉を囁き、彼女との間に子を授かり、そして、彼女の夫になるとはおかしな芝居のように思えた。
彼女は細かく分けたドーナツをフォークに刺すと、重々しく口に運んだ。ぽろぽろとかけらがこぼれ落ち、唇の間から赤い舌がちらりと覗いた。彼女の子宮の壁もこの舌と同じ色をしているのだろうか。そこに満たされた羊水の中で、彼女とは別の生き物の心臓が脈を打つ。心音がへその緒を通して彼女に伝わり、彼女の静かな咀嚼音と重なって僕の耳に届く。
「三曜堂のドーナツはおいしいわね、やっぱり。甘いドーナツと苦い珈琲の相性は最高だわ」
彼女は満足そうに、紙ナプキンで口許を拭った。そうだね、と僕は相槌を打って、珈琲を飲む。ぬるくなったそれは、幾分かの酸味を残して喉を流れていった。
「アコースティックギターも、もう送っちゃった?」
「いや、あれは粗雑に扱われて壊れると嫌だから、まだ家にあるよ」
「それ、譲ってもらえないかしら」
え、と僕は一瞬言葉に詰まった。別に彼女にギターを譲りたくないわけではなく、単純に彼女がそれを所望したのが意外だったのだ。
「いいよ。でも、長いこと弦を替えてないけど」
「弦の張替えくらい自分でするわ」
「そうか。それで、いつ持ってくればいいかな」
「今からあなたの家に行くのはだめ?」
「構わないよ。でも、荷物にならない? 持てる?」
「ギターの一本くらい平気よ」
いくら妊婦だからってそんなに甘く見られちゃ困るわ、と彼女は肩をすくめた。ショートヘアから覗くフープピアスが小さく揺れる。
彼女の右手にはフォークが握られたままだった。その赤い爪をした指がギターを爪弾くところを想像する。僕のギターを手にした子どもが、体には大きすぎるギターを持って、彼女に後ろから抱き込まれるように座る。子どもの小さな手に彼女の白い手が添えられる。少しくぐもった音が鳴る。ねえ、ママ、音が鳴ったよ。子供の声が風に乗る。茶色く透き通った髪が彼女の顎を撫でる。
赤の他人である僕が、これから築きあげられる家族に間接的にだけど関わることができるのだと考えるとなんだか可笑しかった。隔絶されると思われた僕と彼女が、いびつな形で繋がりを持ち続けるのだ。
「じゃあ、これを飲み終えたら行こうか」
珈琲を飲む。彼女も僕に倣ってカップに口を寄せた。現実も案外悪くないものかもしれない、と僕は虚構の空間で思った。飴色の光に包まれて、人々はやはり呑気に自分の世界に身を浸しているのだった。